梅田 正己 / ジャーナリスト /マスコミの「米軍再編」報道と、緊急出版『沖縄は 基地を 拒絶する』 / 06/01/01

マスコミの「米軍再編」報道と、

          緊急出版『沖縄は 基地を 拒絶する』

梅田 正己 (ジャーナリスト、高文研代表。著書『「非戦の国」が崩れゆく』高文研、他)

前回のこの欄で、今すすめられつつある「米軍再編」を受けての在日米軍基地の再配置と自衛隊の一体化は、日米安保条約の質的改定にほかならないこと、にもかかわらずマスコミの状況把握はきわめて弱く鈍いことを指摘した。

 そのため、「米軍再編」により新たな基地負担を強いられる自治体では、北海道から鹿児島、沖縄まで激しい反対運動が起こっているのに、その具体的な動きはマスコミではほとんど伝えられていない。

 

◆相模原市、座間市では市長を先頭に“市ぐるみ反対運動”

 たとえば神奈川県の相模原市である。

 相模原市には、隣接する座間市にまたがる「キャンプ座間」のほか、相模総合補給廠と相模原住宅地区(米軍ハウス)などの米軍基地がある。相模補給廠はベトナム戦争時代、戦車の修理をはじめ米軍の補給・兵站の拠点としてフル活動した基地だ。

 今回の日米両政府の合意では、キャンプ座間に米陸軍第一軍団司令部がやってくるほか、陸上自衛隊の中央即応集団司令部が新設され、それに連動して相模補給廠には1300人の陸自普通科連隊が置かれることになる(前回の記事参照)相模原市は、1936(昭和11)年の現在のキャンプ座間での陸軍士官学校の建設をはじめ旧日本軍の8つの軍事施設が置かれたが、戦後はそれがそっくり米軍に引き継がれた。つまり70年もの長期にわたって、軍事施設との同居を強いられてきたのだ。それを相模原市では「基地負担70年」という。その上に、もし今回の再編計画を受け入れて、ここに日・米の新司令部が設置されれば、基地負担は恒久化することになる。「これを許すと、50年、100年先も基地の街」というわけだ。そうした危機感から、市長を会長とする「相模原市米軍基地返還促進等市民協議会」では、市を挙げて反対運動を展開している。

〈左写真〉は、その市民協議会で作ったA4判・4ページのリーフレット(カラー印刷)だ。協議会で作ったといっても、その事務局は市の渉外課に置かれているから、市の職員が市の予算で作ったものだ。「みんなの声を小泉首相に届けよう。署名にご協力を!」と呼びかけるこのリーフレットは、市内の全世帯21万戸に全戸配布された。その結果、集まった署名は、市の人口62万の3分の1、21万に達したという。

 市民協議会は、市と市議会のほか、市教委、市PTA連絡協議会、商工会議所、自治会連合会、連合神奈川相模原、全駐労相模分会、市戦没者遺族会などから、市消防団、市交通安全協会などまで37の団体で構成されている。その先頭に立っているのが、小川勇夫市長だ。市長は「戦車に轢かれても反対する」と言明したという。

(その発言に触発されて、キャンプ座間の南半分を負担する座間の星野市長も「ミサイルを撃ち込まれても阻止する」と宣言した。)

 

 相模原市は、先に書いたように人口62万の大きな市である。そこでこのような市を挙げての、文字どおり“市ぐるみの反対運動”が起こっている。先の署名運動のほかキャンプ座間包囲行動、日本の防衛庁長官、米国の国務省・国防総省長官宛の意見ハガキ運動も取り組まれた。

冒頭に述べたように、今回の在日米軍基地の再編は日米安保体制の枠組みそのもを改変する実質改定である。しかし、基地負担を強いられる自治体がこれを拒否すれば、計画は宙に浮く。したがって、自治体がどう対応するかが、今回の在日米軍基地再編問題の核心だといえる。

 それなのに、上記のような自治体の動きがあるにもかかわらず、マスコミはそれをほとんど報道し得ていない。奇怪としかいいようがない。

 

◆緊急出版『沖縄は 基地を 拒絶する』

 相模原市は首都圏にある。東京の通勤圏内だ。それでも具体的な動きについての報道はなかった。まして、沖縄は海を隔てた彼方だ。報道はきわめて弱かった。

 今回の再編計画の概要が報道されたのは、10月27日の朝である。焦点は、沖縄・普天間基地の辺野古沿岸部への移設だった。辺野古では昨年4月以来、地元住民を軸にした座り込み阻止行動がすでに560日に達していた。それを黙殺して、辺野古のサンゴ礁から大浦湾にまたがる海域に、1800メートルの滑走路と、広い駐機場、整備場をもつ基地を新たに建設するという計画だった。それは海兵隊航空基地であるとともに、軍港機能をあわせもつ計画に違いなか

翌日、1日遅れで届いた琉球新報掲載の計画図(左写真)を見て、再び息を呑んだ。それはまぎれもなく航空基地・軍港だった。後に、現地在住で座り込みに参加しつづけた浦島悦子さんも「二七日の地元紙朝刊を手にした私は、それを思わず叩きつけそうになる衝動を抑えなければならなかった」と書いている。8年前、辺野古海域での新航空基地建設案は、名護市の市民投票で明確に拒否された。それなのに、そこにまた基地をつくろうというのだ。しかも、その結論に達するまでに、沖縄の意思はまったく問われなかったのだ。沖縄の人々の怒りはいかばかりだろうかと思った。

 

 

 

 

 

 

しかし、1日たち、2日たっても、マスコミからは沖縄の怒りは伝わってこなかった。このままでは、沖縄はまたも見捨てられるかもしれない。沖縄の渦巻く思いを伝える本を作ろう、と決めたのが10月31日、その日のうちに60名の人に執筆依頼の手紙を速達で送り、40日間の突貫作業で作り上げたのが『沖縄は 基地を 拒絶する――沖縄人33名のプロテスト』である(下写真。定価1575円、高文研刊)。

 沖縄での最初の芥川賞作家、大城立裕さんの寄稿の表題は「国内軍事植民地から」である。こう書き出されている。「沖縄はしょせん日本の軍事植民地だという思いを、なかば遠慮がちに書いてきたが、それほど遠慮するにも及ばないか、と思うようになったのは、新任の麻生外相の堂々たる発言を得たときである。」

では、麻生外相は何と発言したのか。

「麻生外相は、沖縄の地理的な特殊性をあげ、日米安全保障のためには沖縄を基地に提供することがぜひ必要だ、と明言した。沖縄に人間が住んでいるという認識がそこにはない。小泉政権の総意だといっても間違いではないだろう。この姿勢は、琉球処分(1879年)いらい変わらない、日本政府の本音であるらしい。」

ここには、苦い、苦い失望感が込められている。琉球処分いらい差別と犠牲を強いられてきた沖縄からの「日本」への訣別宣言とも読める。そしてその思いは、この本全体をつらぬく基調でもあった。

先の引用の中で、麻生外相は、日米安保のために沖縄は犠牲になってもらいたい、と語っている。アジア太平洋戦争末期の沖縄戦は、「本土決戦」の準備のための時間かせぎの“捨て石作戦”だった。その結果、県民の4人に1人が命を奪われた。その後は27年間、米軍の支配下に置かれ、“基地の島”とされた。今も在日米軍基地の75%を背負わされている。もし新たに海兵隊基地が建設されれば、沖縄本島北部は陸・海・空の複合基地となり、その軍事機能が恒久化されることは目に見えている。

「日米安保のために」そうした事態を容認できるのか、どうか。問われているのは、沖縄県民ではない。日本国民全体、その一人ひとりである。

 

◆社機を飛ばして学者に「沖縄説得」を書かせた朝日

 しかし本土マスメディアには、そうした認識はほとんどなかったようだ。『基地を拒絶する』に、国政美恵さんが次のように書いている。国政さんは普天間基地のある宜野湾市に住み、97年の名護市民投票いらい沖縄からの基地撤去運動をつづけている人だ。

「10月27日の朝刊に各本土紙の社説の記事が載っていた。期待していたわけではないけど、かなりがっかりした。『普天間移設 今度こそ実現したい』と題したのは毎日新聞。『周囲に住宅密集地を抱えた普天間基地のキャンプ・シュワブ移設』も『一歩前進』と評価した。読売新聞は『政治主導で迅速に実現を図れ』と『反対運動も予想されるがそれを理由に建設計画の推進を怠ることがあってはならない』と言う。これが日本の姿なのだと理解した。」

 最後の15字、「これが日本の姿なのだと理解した」に、日本に対する突き放したような不信感が込められている。

 その後もマスメディアの論調に変化はなかった。私が唖然となったのは、11月22日付の朝日に載った五百旗部真(いおきべ・まこと)神戸大教授のレポートである。五百旗部教授は、朝日新聞社の小型ジェット機に乗って伊丹空港から飛び立ち、沖縄を上空から「視察」した後、次のように書いていた。

「機は辺野古周辺の海上を旋回し、われわれは手にした基地移転予定の図面を眼下のキャンプ・シュワブの施設が連なる岬の現況に当てはめた。ジュゴンの藻場でもあるという南のサンゴ礁の海、背後の深い青をたたえる大浦湾、双方の美しさを見て基地が海に押し出すことに痛みを感じないではない。」

 ここまではよい。だが最後に「痛みを感じないではない」と書いていたことからも類推できるように、すぐにこう続けるのである。

「しかし、従来の沖合や浅瀬の案に対して環境への被害の少ない移設案と見えた。」

 冗談ではない。今回の案は、辺野古サンゴ礁を破壊するだけでなく、最良の漁場である大浦湾をも直接破壊するのである。

 この後、ジェット機は普天間基地へ向かう。「やがて嘉手納の巨大空軍基地を経て、普天間が現れる。この辺りから那覇まで、空から見れば切れ目のない一つの大都市である。密集した大都市の真ん中の台地に飛行場を抱えるかたちになっている。なるほど、ひとたび事故が起これば大変だといわれ続け、そして昨年8月にヘリコプター墜落事故が実際に起こった。これは人間の生存への脅威であり、辺野古岬周辺の環境に一定の影響があるという問題とは質が違う。やはり基地移転を進める他はないだろうと感じた。」

普天間が「世界一危険な基地」であることは、空から見るまでもなく誰もが知っている。ラムズフェルド国防長官も認めた。だから沖縄の人々は基地の「県外移設」を求めている。しかし五百旗部教授は、問題を普天間か辺野古かの二者択一に設定して、辺野古を取るしかないだろうと言っているのである。

 この後、教授は「沖縄のメディアや防衛施設局の関係者と懇談」する。そして「この度の移転案を地元の人々がそこまで厳しく見ているのかと衝撃を受け」、「そもそもなぜ代替基地が県内なのか、なぜ自分たちにばかり苦難を押しつけるのかとの思いを沖縄の人々は禁じ得ないようである」という感想を抱く。しかし結局、ジェット機を使っての「視察」の「結論」を次のように書くのである。「平凡であるが、一方で日本政府が基地のみに依存しない沖縄の発展を後押しすること、他方で沖縄社会が思いつめることを卒業し、軽減はされてもなお巨大な安全保障の負担を受けとめつつ、この状況を逆手にとって独自の振興を図る心境を築くこと、それを私は期待したい。この度、米国側も沖縄の負担軽減に協力した。日米関係を破綻させてよい安全保障環境にないことを理解すべきであろう。」

文中、「沖縄社会が思いつめることを卒業し」とある。誰が思いつめさせたのか、という考察はここにはない。また「独自の振興を図る心境を築くことを期待したい」ともある。基地との同居は宿命だとあきらめて、あるいは戦争や基地にこだわるのはもうやめて、心境、つまり心の持ち方を変えなさい、と言っているのである。その理由は、次の1行に尽きる。

 

「日米関係を破綻させてよい安全保障環境にないことを理解すべき」であるから。先に引用した大城立裕さんの文章にも同じ言い方があった。

「麻生外相は、沖縄の地理的な特殊性をあげ、日米安全保障のためには沖縄を基地に提供することがぜひ必要だ、と明言した。」

 つまり、五百旗部教授は政府と同じことを言って、沖縄を説得しているのである。教授だけではない。社機を提供し、レポートを書かせた朝日新聞社もまた同じ立場に立っていると考えざるを得ない。

 急いで付け加えるが、朝日にも沖縄に身を寄せ、沖縄の立場で記事を書こうとしている人はいる。現に、西部本社の論説委員、大矢雅弘さんは10月21日の同紙夕刊のコラム「窓・論説委員会室から」でいち早く私たちの『沖縄は基地を拒絶する』を紹介してくれた。大矢さんは、最初は那覇支局員として、次は支局長として、2度にわたって沖縄勤務を経験し、一貫して沖縄にこだわりつづけている。

またその大矢さんの先輩で同じ西部本社の論説委員を務めた稲垣忠さんも、復帰10年の大型連載を担当したのをきっかけに四半世紀にわたって沖縄を書き続けた。その記者活動の軌跡を軸に書かれた『「沖縄のこころ」への旅』を、高文研ではこの9月に出版したばかりだ。

 

こうした記者の存在は、恐らく朝日の沖縄報道の伝統を引き継ぐものだ。半世紀前の1955(昭和30)年1月13日、朝日は朝刊社会面のトップに沖縄の現状を伝える長文の記事を載せた。その前年、自由人権協会が調査した沖縄での米軍による土地強制買収、土地強制取り上げ、人権抑圧の実態を詳細に報じたものだった。この報道によって、本土の国民は初めて沖縄の実情を知る。同時にこの記事は沖縄現地の人々にも衝撃を与え、そこから翌56年にかけて“島ぐるみ闘争”が燃え上がってゆくのである。

その記事は「朝日報道」として、今も沖縄の人々に鮮烈に記憶されている。その後も、朝日は積極的に沖縄を報道し続けた。その成果は、『沖縄報告・復帰前』『沖縄報告・復帰後』として朝日文庫に収められている。その朝日が、五百旗部教授に社機を提供して、先のような記事を書かせたのである。私の気持ちはどうしようもなく沈む。しかし、マスメディアが世論形成の上で決定的に重要な役割を果たすのも事実である。今回の『基地を拒絶する』には、85歳の安里要江さんにも寄稿していただいた。安里さんは、沖縄戦で両親と夫、それに子ども二人を失い、天涯孤独となった人である(その経緯は『沖縄戦・ある母の記録』高文研、に記されている)。その安里さんが、最後にこう書いていた。「なお強く訴えたいのは、本土のマスメディアがその力を発揮してくださることを望みます。沖縄から、その報道をじっと見守っています。」

「権力の監視役」をやめるばかりか、「権力の代弁者」となるマスメディア。その行き着く先がどうであったかは、つい60年前の歴史が教えている。(了) 目次にもどる